昭和52年8月1日 月次祭 ●9 大坪かよこ
只今、マイクで放送があっておられましたように、明日は親教会の夏の祈願祭でございます。
ここも十六日が祈願祭になっております。皆さん、祈願祭の起こりを御承知の方もおありでしょうけれども、私どもが日頃、祈り願いにしておるところの様々な人間氏子の願いというものが成就することのために、いわば、願いのことに一心を焦点をそこにおいてお祭りが仕えられる。
そもそも小倉の初代桂松平先生が、ご本部のご造営を思い立たれました。
そこで先生の有名なお言葉の中に、飛ぶ鳥も翼なしには飛べません。どうぞご本部のご造営のおかげを頂きたいと思いますけれども、あるものがなからねば、成就をすることがでけませんので、どうぞ九州中に、ね、あらゆるいわゆる産業、商業、農業の上に一大ごひれいを頂きまして、九州の氏子がいよいよ助かって参りますその助かりのお礼が御祈願成就の元を作ることのために、おかげを下されという願いが、夏の祈願祭であります。だからいわば、諸事大繁盛の大祈願祭ということになるのです。
ですから諸事大繁盛の祈願を込めるということは、ね、私どもが、もう願って願って止まない実はことなのです。
けれどもそこには、ひとつ核とした一つの焦点があるわけです。
ね、祈願祭のいうなら焦点がご造営成就にかけられておりましたように、九州中に一大ごひれいをと、そこで、小倉の七月の二十日にそのお祭りがなされ、手続き関係の教会が全部七月、八月にかけて、祈願祭を取り行います。
最近ではその焦点がだんだん薄らいで参りました。
けれども合楽ではやはり、いわゆるそういう諸事大繁盛の祈願ということだけに焦点を置いてお祭りを奉仕したいと思います。
そのお祭りが、親教会のお祭りが明日の十一時からですか、十一時ですね。
ここは十時です。十一時からお祭りがございます。
どうぞ一つご参拝を頂き、またはできなかったら、お初穂位一つおことづけになって、明日まとめてお供えをさして頂きますから、よろしくお願い致します。
今日ビリグイの末永先生のところから長い長い手紙が参りました。
もうその全文にあふれておりますおかげの模様が、もう、それこそ胸が躍るような記事、文章でいっぱいでございました。
ただいまのお話じゃないですけれども、沢山なお参りがあるんです。
ところがほとんどが外人の方達、とにかくおかげを受けるんです。
けれども大概の方がです、そのお供えというものをなさらない。ね、ですから、手紙の中に書いてありました。
難儀に強いビリグイ教会、お金に弱いビリグイ教会と書いてあります。
これからどうでもそのお金が必要になってくるような感じでございます。と言うて親先生にこのことを申し上げたらすぐにでも送って下さるだろうけれども、合楽で十年間修業中に見てきたこと、聞いてきたことは、合楽では必要な時に必要なものが、必要であればお金ならお金が、必要に応じて頂けるということを、もう目の当たりにして十年間信心の稽古をしております者として、ね、親先生にご相談するわけにはまいりません、いやまた致しません。
あちらの神前は、信者が外語でいろいろ申されますことは、初めの間は分りませんでしたけれども、もうそれこそない命が助かった、開けない道が開けたというほどしのおかげを頂きながら、もう大変丁重にお礼に見えるのですけれども、その、お礼、ね、本当のお礼は先生、神様から受けて下さいと言うのです。だからまさしくその通りだと先生は言っております。ね、私はお礼は致しませんけれども、ね、神様からお礼は頂いて下さい。ね、それがあちらの言葉で書いてございます。
みんながそうです。ね、ですから、もうとにかくただみんなが助かることさえできればというわけでございます。
ね、しかし、これはやっぱり理ですよね。おかげ、とにかくおかげをどんどん渡したい、おかげを頂いた人が、たとえばお礼をしなくっても、次にお月次祭にはもうお広前が、とにかく入りきりません。
そして、いよいよお月次祭ともなりますと、どこから集まってくるか分らんほどしの沢山なお供えでご神前がうずまりますと書いております。
もちろん小さいご神前ですけれどもね。有り難いですね、神様の間違いないこと。
ね、親先生が福岡の御修行時代に水尽くしのお祭りをいつも仕えられておられた。
お神酒錫の中もお水ならもちろん・・?いうならば、お野菜は庭にでけた少しばかりのお野菜、ね、それこそ拾うてきたりもろうて来たりといったような、お供えばかりであった。水尽くし魚尽くしになるまでは離れられぬがわしの心じゃ、というようなお祭りを仕ええておられたと言うことでしたから、私も一回ぐらい水尽くしのお祭りを仕えたいと思いますけれども、ま、おかげを頂いて幸か不幸か水尽くしではない、初めからお月次祭ともなると、どこから集まってくるのか分らんのですけれども、お供えがご神前にいっぱいになりますということが書いてございます。
おかげを頂きまして私がサンパウロの方へ参りますと、若い青年層、学生層の方が沢山集まります。今までかってなかったこと。もう七十年ぐらいなるでしょうかね。
あちらに、サンパウロに布教所がでけて、でけたと言う名ばかりのことであって、教会にもなってはいない。もちろんご子息が大変偉くなっておられますから、その教会の機能がなくても、いわば生活は立って行くわけですけども、先生があちらに参りますようになって、御大祭も仕え、霊祭も仕え、月に一回づつはお話しに行く、ま、場合には二回も行くようなこともある。用件があると、で今度、あちらで学生会の結成をするようになった。驚いてしまします。
ね、学生会がでけるちゅう。ね、先日から、大変おかげを頂いて、その何とかという、ま、それこそ何とかという所です。もう、とにかくある日本人の方がブラジル国から、もう沢山な土地をもらうと言うでしょうかね、ま、開拓すると言うことを条件にでしょう。
ね、その地方にその方が大変おかげを頂いて、今度そちらに参ることになっています。
先生どうでもあちらの方、まあ、とにかうく二十里、三十里のとこじゃありませんでしょう。とにかく、まだ今でも拳銃の打ち合いがあると言ったようなとこだそうですから。
先日もこちらから行った人が、その拳銃で撃たれていわば帰ってこられた、といったような、ま、物騒なところだ。けれどもこの神様を頂くというのが、あちらではお社がないですから、大黒様です。この神様をお供していく限りです、ね、必ずあちらに支部がでけるでしょう。というようなお願いがしてございますから、どうぞよろしくおかげを頂きますように、と言うことが、書いてございます。
キリスト教の神学を収めたいとある、いうならば、聖教に心を寄せた青年が、ね、いわゆるカトリックの勉強にね、もうそれこそ一生懸命になったんです。
ところがなればなるほど難しいというか、ね、とてもこれは人間がでける宗教ではない、これは仏教だって同じです。極めようと思えば、極めようと思うと、助かるのすべがないです。もう助からないところは因縁で片付けられるんです。
助からないところは、たとえば原罪で、罪でそのキリスト教の場合はもう縛られてしまわなきゃならんのです。
ね、そういう意味でです、合楽で言われておる合楽理念の素晴らしいということがです、もうそれこそ、死を前にしたように憔悴しきって、それも何か用があって、サンパウロの方へその青年が参りました時にビリグイにこうした神様がおられる、見えておられるということを聞いて、わざわざ訪ねてきた。
毎日日参をして来る、もういわゆる宗教の勉強を一生懸命しておるのですから、ね、いうなら、その合楽理念にもうびっくりしてしもうた。
ね、なるほど合楽理念は人間が助かる理念だ、お徳を頂いていく理念だ、しかもあの世、この世を通して助かっていけれる理念だ、ということが簡潔な合楽理念のその説明だけで分ったんです。
それから、もう見違えるように生き生きとして、これから先生がお話になるそれをブラジル語に訳するところの御用を、私に承らせて下さいという願いがあっておるです。
驚くばかりですよね。
毎日あちらの中学校の先生をなさっておる方が、夫婦末永先生に毎日ブラジル語の、を教えに来なさる。かと思うと、自分が月次祭なら月次祭にお話しをする、もうほとんどの人は、外人ですから、分らんけれども、私の話を聞きながら、涙をぼろぼろ流しながら頂いておる。
分るはずはない、内容は、ね、中の日本人の方達が、この話をどうでもブラジル語にしたならという願いがあったら、向こうからその御用をかってでるというような働きになって来ておる。
ね、いまこちらから若い青年の方たちで、こちらに修行にやりたいと思う人達が四、五人おりますち。まだ二カ月、三カ月ならないですよ。
ね、それにはやはり金がかかるんだと言うわけです。ね、その手紙を今日研修の時にみんなで読ませて頂いてから、本当に最近の合楽の信心が、一回りも二回りも大きくなっていっておるものを感じるねと、ま、申しましたことでした。
先月は皆さんも御承知のようにあのようにもうそれこそ熱烈な夏期信行が、一月間繰り返されました。
昨日はその明けでございましたから、皆さんがいろいろ体験発表などがありました中に、丸少の代表が、発表を致しておりました。ほんとにその内容が一番充実してましたよ、丸少のが。その中に申しております。今度の丸少の全国大会に百名からのものが、父兄それから、子供たちを入れると百名からになるそうです。
この頃から七十名の子供たちがここへ合宿を致しまして、ま、いろいろと御用させて頂いておる。
昨日私は、丸少のそのブラスバンドを先頭に七十名の人たちがここで行進をする模様を見せて頂きましたが、まあいつの間にああ言うことが覚えられただろうか、あんな難しい楽器が沢山あるのが、誰がこれを吹くだろうか、こんなもの難しいもの、その購入してから、誰がそのこれを使うだろうかと思うておったところが、どっこい、もうみんなそれぞれを見事に演奏致します。
しかも何十名の人達が揃うたここでその行進を致しましたが、ね、今度の丸少の合同合宿にはです、九州中の各県から集まっておりますと言うことを昨日話しておりました。
長崎、熊本、佐賀、福岡は勿論のとこ、佐賀、熊本、宮崎、大分、全県の中からのご信者さんの師弟がこの四、五日間でしたか、ね、ここで子供ながら信心修行をさせて頂きました。
それが今度、ま、御本部に参りますわけですけれど、なるほど合楽教会がほんとにこう大ゆうなっていきよるということを感じずにはおあられません。
そこで、私ども自身の信心もです、やはり大きく育って行かなければなりません。
祈願祭、は、そりゃもう、?すさまじいまでに大黒様のお働きが始まって、ね、さ、大黒様を奉祭するといったような、ま、ちょっとした話が輪になって、三百何十体の大黒様がここから出て行かれた。しかも一万何千円もするような大黒様がね、飛ぶようにいわば売れて行く。ね、ま、売れたというかね、皆さんのところで、もうそれこそ、もう初めて参って来たと言う人の話を聞いて、もう金光様をお祭りせんでも大黒様だけはお祭りしとると言うとこも大分ある。ね、それはお互いの心の中にいかにすさまじいまでの願いというものがあるからだと言うことになるのじゃないでしょうかね。
また、その願いが、無くてはなりません。ね、そこでその願いの焦点というものが、しっかりしての、いわば願いでなからなければならんと言うことでございます。
桂先生が九州中に、ね、あらゆる面においてです、産業、工業、農業、ね、様々な中からです、ね、飛ぶ鳥もそれこそ翼なしには飛ばれません。どういう神様に喜んで頂く御用をさせて頂きたいと思いましても、ね、いうならば、信者に実力がでけないことには、おかげになりませんので、どうぞ一大のひれいを九州の地にもたらして頂くことを願われ、その願いの起こりが、いわゆる夏の大祈願祭と言うことになっております。
合楽では一月間の、いうならば燃えるような夏期信行の、いわば、願いの焦点と言うのは、記念祭にかけられた方もありましょう。また私としては、七月三十日に交通安全、それから、病気を致しませんようにと、無事息災の願いとうもの、あの祓いつものが、ちょうど一月間ここにお供えがしてございました。
みなさんのあの一生懸命の祈りが、ね、あの祓つものを通して神様に通じる思いを願いをさせて頂きました。
ね、そのいうなら燃えるような修行をです、私は、ここの十六日の祈願祭に持ち続けて行かなければいけないと思う。
ね、それこそ神様にね、どうでもという願いを立てることです。
ね、しかもその願いの焦点は、どこまでも、ね、神様に喜んで頂く御用がでけることのために、ね、その祈願が成就致しますようにという願いを立てさせて頂いてのお祭りでございます。
明日のいうなら親教会の祈願祭もやはり私どもはそういう思いでご参拝のおかげを頂きたいと思います。
十六日ですから、もういわばその大祭にかかる。それから、十月にはいよいよ十年の記念祭が行われる。
老いも若きもみんな記年祭記念祭と思いがそこに一つになって、盛り上がるところの信心を頂いて、いうなら記念祭が恭しく、神様のお喜び頂けるような、また私どもも喜べるようなお祭りに仕上げて行く願いを持たせて頂くのでございます。
そこでなら、記年祭記念祭ということがです、ね、ならどういうことを目指させて頂かなければならないかと言うと、もちろん記年祭であり、十六日の祈願祭でございますけれども、ね、まず願わなければならないのは合楽理念の銘々の心の中にの確立であります。
ね、合楽理念、合楽理念とただこれだけではいけません。もうそれこそ、初歩のところから一つお互いかからせてもらわなきゃいけません。
合楽理念の中に申します心行、表行が全廃になり、心行、心の中に一つ行を絶やしてはならない。
ね、そこで私がいつもお風呂場での事やら、お便所場での事やらを申します。
これはお便所とか、お風呂場だけのことではないのです。そういう小さい心の使い方が、タオル一つ使わせて頂くでも、ね、せっけんを一つ使わせて頂くでも、始末のために倹約のためにこうするのではない。心に神様を念じておれば、そうせずにはおられないことになる。そこに湯桶半分と言ったようなことにもなってくる。
昨日、一昨日でした。日田の国師さんがお届をされます。
ほんとに合楽理念合楽理念と言うけれども、ね、と言うておるだけで何にもでけていないから、一つもうやろうと思えば子供でもやれることから実行しなければと仰るのですから、湯桶半分と言うことを聞いておりましたから、それを実行させてもらいました。
吉井の熊谷さんのように信心のでけておられる方でも、親先生のあの真似をされて、いうならタオルをきちっとこうされる、そこから、なんとはなしに親先生が通う、感動が通うてくると言われる。最近はその熊谷さんが、湯桶半分ということを本気で取り組んでおられるけれども、とにかく取り組んでおるようであっても、なかなかその難しい。時にはうかつにしておると言うことがあると言うことを聞かせて頂いて、それを遅まきながら私も、どうでもこの湯桶半分を実行しようと思うて、これは親先生ですら半分なら、私はま、四分目くらいで、一つおかげを頂こうと心を使う。不思議なことに心をつこうた途端に、感動が起こってくる。
少しばかりのようですから、やっぱ五辺かかると十辺かからなければならない。
けども数が多いほど有難いものが感じられるのですから、と言うお届けをなさいました。ね、そんなことなんでもなかるごとあるけれど、合楽理念をいよいよ自分のものの血、肉にして行こうとするところには、かならすそういう湯桶半分、またタオルの使い方においても便所にやらして頂いてからでも、いたるところで、いうならば神様が喜んで下さるということは、この風呂場をこの便所を皆さんが使われるときにできるだけ気持よう、有難く使われるようにという心を使えば、おのずとそうしなければおられないことになってくる。先生もそうなさっておられるんだからという見易い所から入らせて頂いて始めての体験、それはたったこのくらいなことで感動が頂けるということは、合楽理念というのは不思議なことだと言うのであります。
中に説かれておあるところの、いうならばその一つ一つが、いうなら天地日月の心になること肝要であり、いよいよ成り行きを尊び大切にさせて頂き、一切のことに事柄に御の字を付けて御事柄として受けて行こうというようなことに徹していくことになったら、どういう有り難いおかげになっていくだろうかと思うほどしに、ね、いうならば、合楽理念が血に肉になって行かなければならない。
末永先生じゃないですけれども、今日の手紙をもう一から十までです、そのことを書いております。もう合楽理念による以外にはありません。あらゆる宗教を勉強し、ね、この頃からは、日本から行っておる何とかという宗教を十年間もその、その道の教師をしておった人が助からない。そしてたまたまビリグイの末永先生のところにおかげを頂いて、いうなら合楽理念を聞いてもうびっくりした。
もう大変な沢山な勉強をしておることが、たったこれだけのことに、しかも完璧に、ね、、しかも絶対、絶対という言葉を使いながらこの道を行けば絶対助かる、この道を行けば絶対徳が受けられる、という一線上に出て、出たのが合楽理念だ。
ね、それこそ、仏教でもキリスト教でも助からなかった人がです、いうならば合楽理念によって助かることがでける。なるほど合楽理念は助かりの理念だという体験を積んで行くということが、ね、いよいよ私どもが助かるということになるのでありますし、その理念の確立ということがです、どうでも記年祭までにはです、ね、その一通りのことが分らせて頂いて、どこをついても合楽念とはこういうものだとということが分って、それをなら、成そうと思えば子供でも成せるような簡単なことから、一つ自分のものにしていって、ね、おかげの土台である、いうなら、ね、記念祭のことを願うということも大事だけれども、その記念祭がいよいよ記年祭らしい記念祭になることのために、私どもが合楽理念をいよいよマスターさせてもらい、いよいよその行者にならして頂くおかげを頂かなければなりません。
心行一つに絞らせて頂いて、自分の心の中にきっとこのくらいなことが、こんなにも喜べれるんだということなんです。
ね、それはもう不思議なくらい。いよいよ皆さん実行してごらんなさい。小さいところから、ね、それをいよいよさらな信心、今日昼の御理解の中にとばんに書かせて頂いておりますが、ね、信心させて頂く者の心掛けと、やはりその心掛けがなからなきゃいけません。
その心がけの中に合楽理念が入ってこなければいけません。
ね、合楽理念の根本は何と言うても親孝行だと、先祖を大切にするということなんです。ね、それであなたのところのいうならば、献立の中にはお年寄りの歯に合うような献立になっとりますか。あなたのところのお年寄りがおられる部屋は、夏は涼しく冬は暖かい風通しの良い部屋になってますか。というようなことが自問自答されて、これだけでも私がおかげを頂いたという元が分る人があるんです。
ね、秋晴れや、畑の隅に花畑という句が出ております。
ね、年寄りのために、もう全部、金にならんもんは作らんというのじゃなくて、隅の方に年寄りが喜ぶ花畑の少しでも作らせて頂けよ、そういう心掛けが、信心にはいるのです。ね、その心がけをね、合楽理念はあますこと無く説いてございます。ですからそれを知っただけでなく、それをまず、成そうと思えば子供でも成せるところからです、本気で行の上に現わし生活の上に表していかなければいけないといういことでございます。どうぞよろしくお願い致します。
なら明日の親教会の御大祭のことはよろしくどうぞお願い致します。